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プロフィール

ブログ名
マインドフルネス・アシスタンス  八女
ブログ紹介
※「平成28年熊本地震」並びに「平成29年九州北部豪雨災害」により被害にあわれた方々に対する、ボランティアによるマインドフルネスのご紹介は終了いたしました。
まだまだ復興途上にありますが、皆様の「今・ここ」がマインドフルであることを祈っております。


 
※ マインドフルネス・エクササイズのご案内

概要
@時期:6月30日(土) 13時から17時の間
A場所:八女市民会館「おりなす八女」 研修棟3階和室
B講師:田中(マインドフルネス瞑想療法士・臨床心理士)
C参加資格:どなたでも参加いただけます。
D参加費:5百円
Eその他:細部の実施要領については、5月21日(月)の記事でご案内いたします。


※「器鏡の会」  過去にSIMTのグループ・セッションを受けられた方であれば、どなたでも参加いただけます。「鏡の自己」、「器の自己」を共に実践・自覚してまいりましょう。
時期: 2017年2月19日(日)開始 第42回終了 次回は、5月27日(日)です。 
日時: 毎週日曜日 18時55分〜19時45分まで 
場所: 『おりなす八女』研修棟1階茶室1
進め方
@ 田中が18時55分までに部屋の鍵を開ける。
A 畳の部屋に入る前に一礼
B 入室後、開始の鈴が鳴るまでは、会話等自由とする。
C 18時55分から19時の間に開始の鈴(2回)。
D 開始から15分後までは、何回か短い言葉を発することがある。
E 開始から15分後に鈴を1回鳴らす。その後、言葉は発しない。
F 開始から40分後に終了の鈴(2回)。
G 終了の鈴がなったら、その場で静かに体をほぐす(約2分間)。
H 1回鈴を鳴らしたら、部屋の中央に向かい相互に黙礼。
I 畳の部屋を出る前に一礼。沈黙の中で退室する。
J 入退室は何時でも良い。ただし静かに行動する。
K 最後に田中が退室し、施錠後、管理人に返納する。
質問等: 開始前あるいはメールにて行う。
参加者: 参加希望者は、メールまたは電話にて、事前にお知らせください。基本的に誰でも参加可能です。
参加費: 参加の都度、百円(部屋代、エアコン代として使用)
ご用意いただく物: 小さめの座布団
※「器鏡の会」に参加して部屋を出られた後は、そのままお帰り下さい。禅定力を保持したまま、移動されることをお勧めいたします。何らかの勧誘を行うことは決してありません。

※マインドフル練功十八法: 2018年3月第2週から開始、12月第2週まで。
@ 八女市本町の市民会館「おりなす八女」(交流棟創作練習室A)において、毎週水曜日14時から15時、並びに毎週木曜日 18時〜19時の間。
A 参加費は次の通り(参加費/月間参加回数)です。(500円/2回以下、1000円/3回、1500円/4回以上)。ご家族で参加される場合は、お二人での参加費とします。
マインドフル練功十八法とは、誰にもできる保健体操としての練功十八法を行いながら、マインドフルネスを身につけられるように言葉かけを工夫したものです。また、腹式呼吸法も練修致します。しなやかな心と体をつくりあげて行きませんか。随時受け付けています。
〈お勧めしたい方〉
・心身の調子がすぐれない方(通院中のお方は、担当医師に確認後、ご参加願います)
・健康の維持増進を図りたい方

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スワイショー(腕振り運動)

2018/05/11 10:29
今回テーマとしているスワイショーとは、中国語で「腕を振る」あるいは「放り投げる」、という意味を持ちます。山口県で勤務していた時に、中国地方の武術太極拳協会長並びに関東で勤務していたことのある後輩から、練功十八法と共に教わりました。
私が、スワイショー(腕振り運動)を功法として取り入れ始めてから15年ほどになりますが、前回記載いたしました練功十八法に続いて、今回は、このスワイショーについて少し触れておきたいと思います。

スワイショーとは、腕を前後に振る、あるいは、腰の回転と共に振り回すだけの、極めて極めて簡単な運動です。
菩提達磨が伝えたものと言われているようですが、正確なところは分からないというのが事実のようです。近年については、形意拳の武術家が、20世紀中頃から中国で広めたとされています。
いずれにしろ、ちょっと疲れた時には、誰もが、軽く前後に腕を振ったり、ちょっと腕を振り回したりするわけですので、誰が創始したのかについて調べることには、あまり意義を見出せないでしょう。

私は、皆さんと練功十八法を行う時に、このスワイショーを20分間ほど行っていただきます。その中で、練功中に何か考えていることに気づいたら、それを放して、腕が動く感覚や腰などの感覚に、意識を向け直していただくようにしています。
この運動は、皆さんの状態を拝見していても、私の実感としても、健康にとても良いと感じています。結論的なことを先に申し上げれば、これは動く瞑想です。

私は、私なりにアレンジしたやり方で行っていただいていますが、開始時に比べて時間がたつにつれて、皆さんの動作から硬さがなくなってしなやかになったり、血色が良くなったりして行かれることが分かります。
一方、腕を振るだけの極めて軽い運動のため、実際に測定したわけではありませんが、心拍数の変化はほとんど感じられません。私は、時々テレビを見ながら行ったりしますが、それは運動として長く行うためにはやりやすい方法ですが、やはり瞑想として行うのであれば、「今・ここ」の自分に「マインドフルネス」を得ながら行うことが必要です。

このスワイショーの良いところは、極めて簡単でありながら、血流を良くして、しかも心身のリラックス効果が得られるというところにあります。なにしろ手を振るだけですから、立つことが出来る人であれば、誰にでも出来るものです。加えて、その動きが極めて簡単で基本的なため、自分なりのアレンジを加えながら楽しむことが出来るという点も、良いところです。

セロトニン研究で有名な東邦大学の有田先生は、リズミカルな繰り返し動作の継続が、セロトニンを多く放出し始めると説かれています。実際、スワイショーをやり始めてしばらくすると、瞑想状態に近づいて集中できていることが分かるようになります。終わった後は、リラックスとともにスッキリ感が得られます。

練功十八法は、前回説明しましたが、十八の動作それぞれに目的があって、基本的には十八の動作を行うことによって、腹式呼吸法と全身のストレッチや軽い負荷運動が出来るようになっています。一方、スワイショーは、極めて簡単な同じ動作を繰り返しながら、血流を促し血流量を増やして、リラックス感とスッキリ感が得られるようにできているのです。

身体の構造的な面から見てみると、腕を振るときには肩甲骨が動きますが、そのことが身体の多くの箇所に大きな影響を与えています。肩甲骨は腕を動かすためにあるようなものですが、この腕と肩甲骨の間には四つの関節があり、これらの全てを動かすことになります。鎖骨も入れると五つの関節が関わっているということになります。
更には、肩甲骨には17の筋肉がつながっています。いかに多くの筋肉や関節が関わっているかを知ると、肩甲骨周りだけでも十分な運動のように思えますが、実は長い間腕振り運動を行っていると、これは、全身運動であると段々と感じられるようになるはずです。

片腕の重さは、大人では大体3〜4キログラムあるはずですので、この腕を前後に動かす、あるいは振り回すということは、それだけ身体がぶれやすいということです。筋肉には、主に腕を動かすための主動作筋、それを助ける補助筋、主動作筋と反対の動きをする拮抗筋、そして、実際に動いている腕とは関係のないところで働いている安定筋など極めて多くの筋肉が働いています。
特に姿勢を安定的に保持するためには、多くの筋肉が関わっていることが敏感に感じ始められるでしょう。上体の前倒れや後ろに倒れるのを防ぐために、腹筋や背筋が働いています。
当然のことながら、大腿四頭筋(太ももの前面)やハムストリングス(太ももの後面)も僅かな姿勢の揺れを防ごうと働いています。脛の筋肉やふくらはぎも同じです。更には、足底筋群も働いているはずです
私は、この様な多くの筋肉への感受性が高まることが、これが自分だという自己感をしっかりと確立し向上させるために、大変大切なものだと信じています。

腕を前後に振るスワイショーは、幅1メーター、前後に計1.5メーターほどあれば行うことが出来ます。
スワイショーには、ここでは紹介し切れていない多くの効果があると感じています。加えて、自分なりにアレンジすることも可能です。勿論、そのアレンジは、正しい理論と経験に基づくものであることが望ましいのですが、自分に合うと感じられたら、しばらく続けてみられることです。極めて基本的な動きながら、いや基本的な動きであるからこそ、色々と分かってこられることがあるはずです。
日常の生活の中においては、1時間近くデスクワークをしたり、何らかの作業をしたときは、数分間のスワイショーを行われることをお勧めいたします。血流が良くなり、肩の凝りが取れ、リラックス感が得られて、その1時間の問題を大きく軽減してくれるはずです。
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練功十八法 「全気全念」

2018/05/01 20:08
私は市民会館で、水曜日お昼と木曜日夕方に、主に「練功十八法」という気功を紹介しています。
「練功」というのは、気功を練習するという意味を持ちます。したがって、「練功十八法」は、「十八種類の気功の動作を練習する」、という意味になります。

この気功は、荘元明氏が、上海における臨床医療実践に基づいて創始したものです。氏は、これを「医療保健体操」と位置付けていますが、十分納得できるものと感じています。十八の動作を通して、腹式呼吸法と共にほとんどの筋肉や関節(靭帯、腱)などを、上肢から順番に動かすようにできています。併せて、それぞれの動作は、筋緊張と弛緩の繰り返しとなっています。つまり、リラックス効果が生まれるとされる「筋弛緩法」ともなっています。

この練功を終えると、ほとんどの方が「気持ちいい」とか「スッキリする」とおっしゃられます。そして、自分では気づいておられないかもしれませんが、大らかで朗らかになられます。その結果、会館を出るころには、誰もが自然と大きな声を出してしまう傾向が認められます。

ところで、「練功十八法」は、決められたとおりに身体を動かすだけでも、それなりに効果を得られるものですが、気功ですので、今回はこの「気」の用い方について、少し触れておきたいと思います。
前回の記事で、「ものごとは 心にもとづき 心を主とし 心によって作り出される」、というブッダの言葉を紹介しました。これを言葉を変えて表現すれば、「心(意識)によって認識されたものが実存する全て」と言えるこのブッダの世界観は、気功においても極めて重要なものになります。心(意識)の用い方が、心身の状態を作り出すとの意義をも持つものだからです。

したがって私は、練功中は考え事をやめていただき、呼吸や動作、身体感覚に意識を集中することをお勧めしています。私たちは、多くの時間を考えながら過ごし易いのですが、その考えがストレスを生む原因となっていることに、ほとんどの人が気づいていません。
練功中においても、「この様な動きは正しいのだろうか」、「あの人に比べたら自分はあまり動いていない」、「あっ、間違えてしまった」等々の考えに囚われが起きれば、それは現在への集中を妨げ、知らず知らずのうちに自分にストレスを与えてしまっています。そして、それらの「今・ここ」の心の状態が、現在と未来を作り上げていることには、なかなか気づけません。

この心の用い方について、明治時代の文豪であり修養の人としても知られている幸田露伴は、「全気全念」という言葉を用いて、修養の要諦を説いています。露伴を修養の人として敬愛していた、「知の巨人」とも呼ばれた渡部昇一氏は、この意義を、「心は気を率い、気は血を率い、血は身を率いる」、と説いておられました。
ブッダの言葉と、この露伴の言葉を統合して捉えれば、この世界に存在する全てのものを作り上げている心を用いて気を率い、その気によって血流を促し、血流によって身体を作り上げていくことが、修養の要諦となってくるのです。

私たちの身体は、もとより不死身のものではなく、誰もが年を重ねるにつれて衰えていきます。あるいは不摂生をしたり、健康管理を怠れば、体調を崩しやすくできています。勿論、それぞれにはそれぞれの寿命というものがあって、生の長短はあるでしょうが、それぞれの寿命の中で精一杯生きることこそが大切なことに違いありません。
したがって、その時々に「気」を率いて、いかにその衰えを最小限にして行くかが、人生における一つの課題であると言えるでしょう。

渡部昇一氏は、この「全気全念」を、現代人は「脳」に向けるべきであると説かれていました。「全気全念」を脳に向ければ、単に衰えを防ぐだけでなく、脳を向上させると説かれていました。
しかしながら、近年の研究から、私たちの内臓は脳が一方的に動かしているのではなく、それぞれの内臓がお互いに連絡を取り合いながら、その機能を適宜に維持していることが分かっています。今まで私たちは、脳が全てをコントロールしているという身体観を持っていましたが、そうではなかったのです。

これは私の考えですが、今までの皮膚研究なども考慮に入れると、内臓だけではなく身体の各部位も、それぞれが密接に連絡を取り合いながら、その機能を維持している可能性があります。
西田哲学で言えば、「一の多、多の一」なのです。身体という一の各部位という多であり、各部位という多の身体という一、と捉えることが大切なのではないでしょうか。

そうであれば、私たちは、その身体各部位の「一つ一つを対象として心を尽くす」、つまり「全気全念」を向けて調和の下で存在していることが望ましいのです。二ではなく、一となるための「全気全念」であることが望ましいのです。
それこそが、おそらく気功による修養の要諦なのであり、一つ一つの対象の代表的なものが、生命の基盤であり全身体の働き(作用)で成り立っている「呼吸」と言えるのです。

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性格(パーソナリティ)

2018/04/21 20:57
ブッダは次のように説いています。

「ものごとは 心にもとづき 心を主とし 心によってつくりあげられる」

これは、ブッダが説いた『真理の言葉(ダンマパダ)』(中村一訳)の、第1章冒頭に取り上げられているものです。

実は、西田哲学においても、全ての存在に対する意識について、共通した捉え方がされています。
その西田哲学を応用したSIMTでは、意識の在り方を、「対象」と「心の作用」という課題として実践していきます。
ものごととしての全ての意識「対象」は、私達個々人の「心の作用」が生み出すものとして捉えていくのです。

例えば、このブログの文字を見ておられるのであれば、文字は「対象」であり、それは見る「心の作用」が生み出したものと捉えます。また、この記事を見て、何かを考えられたのであれば、対象は「思考」であり、それは考える「心の作用」が生み出したものと捉えていきます。

「対象」は、「心の作用」が生み出している事実を、事々に確認していくのです。
この「心の作用」は、私たちにおける共通的な存在であって変わらぬものですが、「対象」は人それぞれであり、次々と変化していることを洞察して行きます。
この洞察が欠けていると、私達は往々にして、「その時々」に心が生んだ「対象」世界に呑み込まれて、これが自分だと思い込んでしまいます。「すぐに諦める自分」、「気が小さい自分」、「集中力に欠ける自分」等々、それが自分なのだと思い込んでしまいます。そして、これこそが、自分の性格(パーソナリティ)だと、それは変わらぬものだと信じ込んでしまうのです。

しかし、それはコロコロと変わるものであり、傾向ではあっても決定されたものではありません。変わらないのは、一元的に存在する「心の作用」のみなのです。
心脳同一説(心と脳が同一のもの)をとったとしても、近年では、脳は変化するものであることがわかってきています。
また、パーソナリティの語源である「ペルソナ」は「仮面」という意味であり、元々どの様な仮面をかぶるかによって変化していくもの、と捉えられていたと言えるのです。
したがって、問題は、「自分はこの様な人間だ」という思い込みや固定観念にこそあるのです。ブッダが説いたように、ものごとは心によってつくりあげられるのです。

「心とも知らぬ心をいつのまに わが心とや思い染めけむ」(慈雲尊者)
これは、心の根底・根本を示した歌でしょうが、私達一般のパーソナリティ理解についての示唆を含んだものであるとも言えるのです。
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「メタ認知」の時代

2018/04/11 21:56
今回のテーマは、昨年の西日本新聞に載っていた記事です(用語は正確ではないと思います)。

福岡県八女市の南にある熊本県山鹿市の小学校では、「メタ認知」を活用した授業が試みられている、とありました。
ローカルながら随分と近いところで先駆的な授業(と言ってよいかと思います)が試みられていることに驚きました。この「メタ認知」という心の在り様は、マインドフルネスと同じ意義を持つと言えます。認知というのは、人間が外界にある物事を理解したり、記憶したり、解釈したりすることを意味します。したがって、「メタ認知」とは、認知を認知すること、あるいは、より高次の認知という意味となりますので、自分の理解、記憶、解釈などを、複眼的にというか高次から見ることを意味します。
SIMTで言えば、「鏡の自己」や「器の自己」の実践が、「メタ認知」を意味すると言えるでしょう。

現代においては、情報は瞬時に伝わり、真否のほどが不明な中で、急速に拡散していきます。これらの情報は、益々利便性と危険性の高いものとなってきており、私たちの生活に大きな影響を与えるようになっています。
この様な情報社会の中で、重要になってくることは、やはり、自分の(認知)状態を見つめることが出来るメタ認知力でしょう。山鹿市の小学校における取り組みの目的は、学習面からのものであったと記憶していますが、メタ認知力は、意識状態を健全に保つ上で、今後益々その重要性が高まって来るのは間違いないでしょう。

このメタ認知力は、学習能力のみならず、情報の取捨選択能力や心身予防医学にも関係するものです。情報過多とも言える社会は、情報の利便性のみではなく情報ストレスを益々増やしていくことになるでしょう。知らなくても良い取るに足らない情報も、否応なしに耳目にさらされることになります。また、正体不明の情報発信者に知らず知らずのうちに、マインドコントロールされる可能性さえ出てくるはずです。加えて、些細な情報も瞬時に拡散する社会は、個々人や組織の在り方に大きな影響を与えて、完全・完璧を求める傾向が強くなってくるでしょう。それは、個々人や組織に大きなストレスを与えることになるでしょう。
その様な社会では、個人や組織を良好な状態に維持するために、究極的には、個々人の心身制御能力を高めていくことが求められるようになるでしょう。

メタ認知と同じ意義を持つと言えるマインドフルネスは、日本においても5、6年前から急速に広まっています。その対象も、ストレス逓減法のみならず、うつ病の予防や治療、不安症の治療などに応用されるとともに、既述のように学習やスポーツさらには矯正施設などで広く用いられています。
この様な中にあって、宗教性を全く排除したと言っても二元的な捉え方のMBSRなどに比べて、一元的世界観に基づくSIMT(自己洞察瞑想療法あるいは瞑想法)は、そこに包み込む対象の広さと深さから、より力を有したものとして新たな意義を持ち始めるように思えます。
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「(孤)高乃花」へのラブレター

2018/04/01 14:10
齢70歳になろうとする人間が、今だからこそ、貴乃花親方にラブレターを差し上げます。

奉納土俵入りの際に、当時の横綱貴乃花関とお話してから、二十数年が過ぎました。
その時の清廉な印象は、今も脳裏に鮮烈に焼き付いています。
まずは、今回、一部とは言え目的が成就したこと、貴源治関ならびに貴ノ岩関が勝ち越されたこと、お喜び申し上げます。
一方、部屋の中から暴力沙汰が起きたこと、「平」に降格されたこと、心よりお見舞い申し上げます。
過去は既に過ぎ去りしものですが、そのことを「自覚した中」で、「妄想の中」お手紙を綴ってまいります。

貴乃花親方の目的は、「神事としての相撲道」を通しての「国体の護持」にあったと、私は今でも信じています。
その目的達成のために、親方が標榜されている「不惜身命」の行動を、今回とられたのだと私は捉えています。
神事とされる理由は、極めて簡単に言えば、「八百万の神」的な心性を有する日本人全ての幸福を祈るものとされているからでしょう。
視点を変えれば、だからこそ内閣府は、相撲協会を公益財団法人と認めているとも言えるのでしょう。
したがって、ここでは細部にはふれませんが、横綱が道の真ん中を肩で風を切るように歩いたり、土俵下で抗議したり、場所前にもかかわらず同国の出身者同志で酒を酌み交わして泥酔することなどは、相撲を冒涜するものとして、決して許せなかったのではないでしょうか。
集団的リンチとも言える事件が起きた直後にもかかわらず、マスコミの前でモンゴリアンチ−ムなどといったユニフォームを着て、これ見よがしに行動する関取を許せなかったのではありませんか。それも、被害者は弟子の貴ノ岩関でしたよね。
加えて、それに対して何も言わない、言えない協会に対して、「我慢の限度」を超えていたのではありませんか。

力だけが強くて日本的心(神)性を大事にしない、神事とは程遠い行動を横綱がとることを、決して認めるわけには行かなかったのではありませんか。その様な行動に対して指導が出来ない相撲協会に、煮えくり返る思いが生まれていたのではありませんか。協会や横綱審議委員会が動き出したのは、貴乃花親方の対立的行動があったのちです。
ただ、親方は決して差別主義者ではないように見えます。実際、神事に参加する関取として、モンゴル出身の貴ノ岩関を大事に育てておられます。

一方、何故黙って協会と対峙しただけでいたのだと人は言います。貴乃花一派の親方からも、そのことを問われたようですね。しかし、親方の中では、協会を面と向かって批判することは、協会の一員である義理に反する行為と映っていたのではありませんか。親方は、義の人「上杉謙信」を尊敬しておられると伺いました。当初は義を貫こうとされていたのではありませんか。協会が自発的に動いてほしいための、対峙の姿勢を示してのマスコミの関心喚起の行動だったのではありませんか。

しかし、春場所直前の告発状提出や無断欠勤といった行動は、協会の対応に対する焦りや、「今・ここ」を忘れた結果の行為となっていたのではないでしょうか。いつの間にか、自分の考えに執着しすぎた行為となって行ったのではないでしょうか。ほかの部屋の多くの関取も、「今・ここ」で必死に相撲をとっていることを、つまり「脚下照顧」を忘れた行為となっていたのではないでしょうか。
その様な中で、お弟子さんの貴公俊関の暴行事件が起きてしまいました。義に厚い親方からすれば、協会に迷惑をかけた状況では、何も言えないでしょう。親方ご本人にとって、本当に反省させられた出来事だったに違いありません。

その中で親方は、平成の大横綱という肩書や協会内での地位を捨て、恥を晒して貴公俊関を守りに行きました。「君子豹変す」、全ての責任を一身に引き受けて、ひたすら謝り続けて守り抜きました。
親方が尊敬される上杉謙信は、同時代の北条何がしから、「上杉謙信は頼まれたら骨になってもそれを守る武将だ」(用語は正確ではないと思います)と評されていたことは、とっくにご存知のはずです。まさに、それを実践されたのですよね。親方は、部屋に預かった弟子は子供であり、いつも標榜されている「不惜身命」で、守りに行かれたのです。自分は何と蔑まれようと、徹底して守りに行かれたのです。
とは言え、これらの行動は、協会のそれまでの行動を肯定することとは全く異なる、と私は受け取っています。

これはラブレターですので、妄想が入っている可能性は自覚していますが、ここのところは極めて大事なところだと思っています。見逃してならないのは、「今・ここ」の命・人生を、自分を差し置いて徹底的に守りに行かれた点です。他の一部の親方衆における過去の行動と、決定的に異なる点ではないでしょうか。
ただ、貴公俊関の今回の行動が、貴乃花親方の暴発を防いだとも言えるのかもしれません。貴乃花親方の協会への執着状態に覚醒させ、そこからの離脱を容易にした、とも言えるのではないでしょうか。

親方は、多くのレポーターが言っていたように発信力がないのではなく、普通の人の理解を超える深さを持った存在なのだと、私は理解しています。山本周五郎作の『樅木は残った』における、原田甲斐の資質に似たものを、持っておられると信じています。何かの本で拝見しましたが、たしかに、親方の様な人はもう出ないのかもしれない、と思ってしまいます。
とは言え、いかに神事としての相撲を目指すと言っても、日常から弓の弦を張り続けるような緊張を強いていたら、弓は肝心な時にその用を足さなくなります。「水清ければ魚住まず」も世界の一つの実相です。川は、時に応じて「清濁併せ呑む」包容力を持っています。

今回の一連の行動の結果、協会は親方に対して、「平」に降格という処分を言い渡しました。
幕末の志士、吉田松陰は、当時の組織によって投獄された後も、同じ牢獄の人々に教育をする一方で、周りの人々からも学ぶべきは学んでいたとされています。
まずは、身近な同僚の方々を包み込みながら、ご精進されることを願っております。加えて、親方の視点で「理事長(協会)を見、理事長(協会)について考える」のではなく、集中して「理事長(協会)となって貴乃花を見、理事長(協会)となって貴乃花を考えていただきたい」と切に願っております。

対象的な捉え方をすれば、親方は頂点に近いところから降りて、今後は最底辺に位置されます。親方に対して敵対意識を持っておられるであろう親方が、同じ部署内での上司となります。加えて、理事長は「人気があるから」と説明していますが、審判の任を与えました。
しかし、頸椎(自律神経)を痛められている親方としては、土俵を常に見上げる姿勢を強要されることは、相当辛いものであるに違いありません。ただ、親方のことだから何も言わず、全力で任を全うしようとされるでしょうね。そうですね、必死でやり抜くしかありませんね。それが、親方の状態を分かってて、理事長から与えられた任務ですからね。

親方の置かれた環境は激変しますが、それに関するものとして、有名な道元禅師の言葉の一部を紹介させていただきます。既にご存知かもしれませんが、ご存知であれば、今一度洞徹いただければと僭越にも思います。次の句です。

「たき木、灰となる、さらにかえりて、たき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、たき木は先と見取すべからず。知るべし、たき木はたき木の法位に住して先ありのちあり、前後ありといえども、前後裁断せり。・・・(中略)・・・。生も一時の位なり、死も一時の位なり、たとえば冬と春の如し。冬の春となるを思わず、春の夏となるといわぬなり。」

これまで、本当にお疲れさまでした。
今回の行動で、親方の一定の目的は達成されたはずです。親方が最も大事にされているであろう、日本国の安寧を目的とした神事としての相撲は、ある程度保障されたはずです。
今回の行動によって、横綱審議会、相撲評議会、相撲協会などの編成やその考え方、並びに公益財団法人の意義などについて、国民は知ることができました。加えて、相撲(協会)について潜在する微妙な問題についても知りました。

貴乃花親方ご自身における今後の辛苦は、並大抵なものではないでしょう。
協会は、親方衆の中からの意見と断りながら、様々な行動を要求してくるでしょう。しかし、この辛苦に耐え抜くことができれば、関取として平成の大横綱であり、親方として次年号の雄となられることでしょう。この様な言葉を綴りながらも、親方自身は全て分かっておられるような気がするのは、私の妄想に他ならないでしょうか。
与えられた環境を超克されることを、衷心より祈っております。

長文過ぎて、さすがの親方もギブアップといったところでしょうか。
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小平奈緒選手(3) 「思考の内容を充実させる」

2018/03/21 09:20
平昌オリンピック閉会式のあと、日本での報告会に参加した小平選手は、休む間もなく、中国(長春)で開かれた世界スプリント選手権に向かっています。そして、3月4日の500メートルにおいて37秒72で1位となり、連勝を27に伸ばしました。ただ、500メートル後の1000メートルについては、体調不良で棄権しています。
小平選手の感じでは、身体が悲鳴を上げていたようです。コーチのアドバイス等があって棄権を決定したとしても、そこに至るのは簡単ではなかったと考えられますが、小平選手は身受心法にわたって、やはりマインドフルネスに優れていたように思えます。500メートルで勝利を手にしていながら、競技中における身体感覚から、1000メートルは棄権したのです。

例えば、相撲界の横綱稀勢の里関は、優勝場所後においては負傷箇所が原因で、出場と欠場を繰り返す結果となっています。この春場所も欠場です。相撲協会やファンあるいは世間の声のみを優先してきた結果が、現在に及んでいるのかもしれません。稀勢の里関の真面目さやひた向きさが、結果的に望ましくない選択をさせて来たのかもしれません。

身受心法への気づきが十分できないと、自我が絡んで、望ましくない行動を選択しかねません。勿論、全てに望ましい判断や行動をとることは困難でしょうが、そこにマインドフルネスが介在しているか否かは、行動の選択あるいは行動結果に大きな影響を与えることになるでしょう。
西田哲学では、この行動に影響する自己を、判断的自己、知的自己、意志的自己、叡智的自己、そして(至人としての)人格的自己と、段階的な捉え方をしています。人格的自己に近づくほど自我が減っていき、世界の動きに合致するようになるとしています。
この件については、ここではこれ以上はふれないことにします。

小平選手は、4日に棄権した後、6日にツイッターを更新し、「喜びや悲しみ、感動や戸惑い、色んな感情と向き合い駆け抜けてきました。まずは身体を休ませ、気持ちを整え思考を充実させることに徹します。」と記しています。
この「思考を充実させる」という言葉には、思考の問題点や思考を観照する必要性を十二分に自覚していることが認められます。まずは、考えていることに気づく力が求められるのです。
SIMTは、基本的には自己洞察瞑想「療法」ですが、自己洞察瞑想「法」でもあります。治療的段階では「考えていない」とマインドフルネスを実践していきますが、小平選手が述べているように、自己の思考に気づいて、その内容をより真実に近づけて行く「瞑想法」でもあるのです。

また、「徹します」という言葉からは、禅的な集中力を感じます。SIMTで言えば、洞察を徹底していくという厳しい洞徹力がそこにあります。これらからみると、過去や未来への囚われを放し、受け入れるべきは受け入れて、「今・ここで大切なこと」に出来るだけ集中して行くという態度は、とっくに身につけていたと思われます。

小平選手は、信州大学において友達でもありライバルでもあった、住吉選手を1月に亡くしています。亡くなった原因は定かではありませんが、ご家族は死因を明らかにされていないようです。小平選手は金メダル獲得後に、住吉選手のことを聞かれて、次のように述べています。

「(目に涙を浮かべながら)正直、彼女のことは何度も何度も思い出すことが多くて、やっぱり考えないようにしていても、常に頭に浮かんでしまっていたので・・・。それでも主将として、レースに集中して臨まなければいけないと考えていました。これは言っていいか分からないですが、住吉選手が『奈緒が金を取ったら私が取ったのと同じ』と言っていて、救われたような思いだったのですが、こうやって金メダルを取ることができて、本当は本人に報告したかったのですが、できないのは残念だと思います。」

この様に、競技に挑む前の段階で、住吉選手のことを常に思い出す中で、最高の滑りでオリンピックレコードを出したのです。小平選手の言葉から判断すると、金メダル獲得という目標が、住吉選手のことを自分の心から追い出した状態にしたということではないのです。
私たちは不安を感じるから、不安に対処できるのです。つまり、この小平選手の状態で例示すれば、住吉選手のことを考えないのが優れているのではないのです。住吉選手のことを考えるということには、ライバルへの共感力であったり、友情への感謝あるいは慈愛といったような、大切な大切な心が含まれているのです。

SIMTの要点と言える「心の作用」を中心に説明すれば、自分の悲嘆は「心の作用」が生み出している「対象」であり、自分の「心の作用」次第で、変化するものだと、小平選手は気づいていたということでしょう。
だからこそ、自分の「あるがまま」を受け入れながら放し(受け入れなければ放せません)、SIMTが強調する「今・ここで大事な(価値を置く)こと」に集中して行けたのだと考えられます。その集中の背景には、住吉選手の言葉も存在していたと思われます。

私たちの心は、色々な心の動きをしますが、自我を交えた一面的な捉え方のみで、その存在を理解すべきではないのです。長い時間をかけて育てられた資質として捉え、「今・ここ」でどの様な「心の作用」状態にあるかということに対して、マインドフルネスを得ていることが最も重要なのです。
様々な資質について、簡単に、「私のこの様なところが嫌いなのです。」と言えないものであるはずです。

ティク・ナット・ハン禅師が諭しているように、私たちは自己のうちにテレビのリモコンを持っていることに気づかなければなりません。テレビに何を映すかは、自分で決める力を持たなければなりません。この力は、繰り返しと継続によって、自分で身につけるより他にありません。一人一人は、それぞれの世界で生きていますから、それぞれの世界をそれぞれが望ましいものにして行くより他にありません。

ところで、小平選手はレース直後、500メートル五輪記録に沸き立つスタンドに向かって、人差し指を口に当てるポーズをとって、「静かにしてください」とジェスチャーで観覧席に呼びかけています。
次に滑る韓国のイ・ソンファ選手への心遣いだったわけですが、イ・ソンファ選手が滑り終わった後も、第2位という結果に落胆しているイ・ソンファ選手の身体を支えながら、「私は今でもあなたをリスペクトしている。」と伝えたとされます。その小平選手を見た途端、イ・ソンフア選手は涙が溢れてきて止まらなかったと言います。

これまで何回も言ってきたように、小平選手が、「イ・ソンファ選手となって見、イ・ソンファ選手となって考える。」ことが出来たからだと思います。その行動を通じて、自分が為すべきことが直観されたからだと考えます。
小平選手の態度に、微少たりとも見下しや単なる友好的態度が含まれていれば、イ・ソンファ選手の中で、泣き崩れるような行動は起きなかったでしょう。

あの場においてイ・ソンファ選手は、小平選手の真心と誠意、それらに基づく感謝の心が、本当に感じられたに違いありません。それは、身受心法へのマインドフルネスを通じて獲得された力「イ・ソンフア選手となって見、イ・ソンフア選手となって考える」小平選手の力だと考えます。
様々な状態を生む「心の作用」は、「自他不二」に存在している、ということに十分気づいていたのだと思います。

ここまで、小平選手の活躍を、マインドフルネスという観点から述べてきました。
小平選手のこの様な行動は、一見当たり前のことと思われるでしょうが、私たちは、しばしばこの一見当たり前のことが出来なくなります。
無意識的に自我が絡んでマインドレスネスの状態となり、小平選手がとったような行動が、いつの間にか当たり前ではなくなってしまうのです。
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小平奈緒選手(2) 「身体と会話する」 

2018/03/11 17:31
NHKスポーツニュース部の田中清高記者によると、小平選手はソチオリンピックでメダルを逃したあと、オランダに単身渡って修行しています。しかし、オランダでの修行については、「感覚的にいいものが得られなくて苦しんでぼろぼろだった」と、振り返っていたと言います。そして、「オランダ人と同じことをしても勝てない」、と確信して帰国したようです。
(マインドフルネスの観点から前回と同様、感じるところを述べて行きますが、やはりSIMTの実践においても自分に合った方法があると考えます。ただし、その自分にあったやり方を自覚するには、実践の繰り返しが求められます。何事も成功するには、考えではなく実践の繰り返しが最低必要条件なのです。「鏡」、「器」、「包むもの」のいずれを洞察に用いるかなどは、代表的な例と言えるでしょう。)

帰国後も、日本で小平選手を指導したのは、前回ブログで取り上げた結城匡啓(まさひろ)コーチです。
結城コーチは、長野オリンピックで金メダルを獲得した清水宏保さんのコーチもつとめています。小平選手は、それを知って信州大学に入学したようです。

田中記者は、小平選手と結城コーチが話し合っている場を、テレビ取材したときの様子を、次のように述べています。
「テレビ取材では、カメラの前でなかなか自然な会話を撮影するというのは難しいことでもあります。しかし、小平選手は違いました。カメラが回っていることを一切、気にすることなく、運動生理学の本を開いて骨盤の図が記されたところを結城コーチに見せながら『いいページを見つけてしまった』とうれしそうに話したのです。これに結城コーチも呼応して、スポーツ科学を専門とする大学教授という立場から、具体的な筋肉の名前を伝えながらどう動かせば、滑りに結びつくかを丁寧に答えていきます。小平選手は氷の上だけではなく、専門書を通じてどういう体の動きがスケートにつながるかを常に考えていて、そのひらめきを結城コーチと意見交換しながらスケーティングにつなげているのです。」

この様にカメラを一切気にすることなく、「スッ」と自然な行動がとれる様な小平選手だから、それまで課題とされていたカーブにおける骨盤傾斜の問題から、結城コーチと共に“ヒップロック”という最新の運動生理学の理論にたどりついて行ったと言えそうです。(これを見ても分かるように、自分の課題を誰かと解決しようとするときには、自分自身が解決の意志を強く持つことと、援助者における理解の資を、純粋性の中で伝えて行くことが本当に大切です。心理的問題についても全く変わりません。岡村美穂子女史が鈴木大拙先生に「禅僧はお寺で何をしているのですか。」と問うた時に、「何でもないんだよ、美穂子さん。『スッとする』ことを覚えるんだよ。」と言われたという話を思い出しました。)

ヒップロック理論については、ここでは詳しく触れませんが、骨盤を一つのものとしてではなく、左右別々に捉えるというもののようです。それぞれに働きかける筋肉等を意識し鍛えて、別々ながら全体として力を発揮するというものです。仙骨と腸骨の間は僅かではあるが動く、と言われているのは知っていましたが、確信はないものの、そこに働きかけていくものかもしれません。田中記者によると、結城コーチは、「骨盤周辺の筋肉を片方ずつ意識して鍛えて、左右別々に骨盤をコントロールすることで、カーブでも骨盤が傾かないよう、片方の足を安定させてもう片方の足を大きく回し、その結果、氷を力強く押すことができると考えたのです。」と説明しています。

上記の二人の骨盤理解も、人間の身体構成を、西田哲学の「一の多、多の一」として捉え得る基盤が、二人に存在していたのだろうと考えています。「丸ごとの身体である一の多、多の一」です。
ちょっと話が小平選手から離れますが、西田哲学における身体観について、ここで紹介しておきたいと思います。

小坂国継先生によると、初期における西田哲学では、心を重く見て身体を下位に置くような捉え方をしていたようです。ただ、次第に身体の重要性というか、心身一元的な捉え方になって行ったと説明されています。
後期における西田哲学では、「身体なくして人格というものはない。」とか、「人格とは昇華せられた身体である。」といった身体観を持つようになって行ったようです。そして、その身体は、世界に対して果たす役割をとおしてはじめて知られる、という考えを持つようになったとされています。「われわれの身体は内から知られるのではなく、外から知られるのである。」、これが西田哲学における身体観となっていったようです。ここで言う世界とは、全体という意味で用いられています。

小平選手の身体に関わる理解は、オリンピックへの参加あるいは最高最善の滑りを目指すところから生み出されてきたものに違いありません。その理解の深さや目指した身体改造(?)は、外からの作用があって生まれ来ったものでしょう。この様に、小平選手の身体は、オリンピックとの関連の中で、人格が昇華されてきたものと言えるのだと思います。

そのレベルは異なりますが、私が自分の考えを取り入れた身体論を持ち、自分の身体についてより深く知ることができるようになったのも、市民会館で地域の方に教える場を得たからであり、西田哲学における身体観には首肯するところがあります。
したがって、確信はありませんが、身体の調子を崩すということは、外と身体との不調和ということができるのかもしれません。世界から遠ざかっているということができるのかもしれません。

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