自覚について

西田先生は、鈴木大拙全集「序」において、「大拙君は高い山が雲の上へ頭を出しているような人である。そして、そこから世間を眺めている、否、自分自身をも眺めているのである。」と述べておられます。この文は、西田哲学における重要概念「自覚」、いや、「絶対無の自覚」から述べられたものであり、言葉を変えれば、大拙先生への西田先生の敬愛の深さを表したものと言えるのではないでしょうか。
西田先生は、哲学論「自覚について」の中で、「絶対無の自覚とは、すべてのものを自己の影として自己の内に映す」ことであり、「絶対無の自覚は絶対無が自覚することであると同時に絶対無を自覚することである」と、その弁証法的意義を説かれています。

上記「絶対無」の自覚における「自己の内に映す」ことについて考察すると、そこに自我やエゴが介在すれば、すべてのものを映すことはできません。
したがって、すべてのものを自己の影として自己の内に映し出すには、いわば「純粋鏡」とならなければなりません。この実践に私たちは日々努めているわけですが、これはいわゆる瞑想とは異なります。瞑想は、欧米のマインドフルネスがそうであるように、自分自身がリラックスしたり楽しんだりすることも含まれます。勿論、それはそれで意義あるものです。
ただ、西田先生による「絶対無の自覚」、言いかえれば「鏡の自己」においては、エゴが介在する余地は極限化されなければなりません。これは、禅の徹底実践と様々な学を包みこなした西田哲学における、自己の実在性に関するキーワードであることを銘記しておくべきでしょう。

以前、幸田露伴氏の書における「鷲は天の高きを翔りて、双眸の裏に幾十里の山河急谷の位置形勢を入るるものなり」という言葉を紹介しました。
これを、西田哲学における「絶対無の自覚」からみれば、鷲は天の高きを翔る鷲であると同時に、鷲自身が見えていなければなりません。この点が、幸田露伴氏が説かれた鷲と大拙先生の大きく異なるところです。自覚においては、直観的であると同時に反省的でなければならないのです。
この「鏡の自己」の自覚に至らなければ、修行によって高い集中力や安定力を得られた方であっても、その行動に自我が密かに混在してしまい、行動力の高さゆえにと言ってよいかと思いますが、人々を苦しめる結果になる危険性さえあるのです。

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