すべては力

五木寛之氏の『大河の一滴』という本が、今また多くの方に読まれているそうです。
新型コロナウィルス問題も関係しているのでしょうか。

二ヶ月半ほど記事掲載をお休みいたしましたが、ここにきて、また新型コロナ感染者が徐々に増えてきています。
くわえて、世界にあっては、今なお感染拡大の傾向にあります。現代は既にグローバル化しており、各国のつながりが強化された状態にあります。この現状を俯瞰すると、いずれ諸国間の出入国制限はとかれ、多少とも「世界の中でウィズコロナ」の生活をおくって行かねばならなくなるでしょう。
私たちは、大河の一滴として、その流れの中で生きて行く力を求められることになるに違いありません。

ところで、最近のブログ記事では、「己を整える力」の大切さに加えて、与えられた力を尽くすための、「力の誦句」を紹介してまいりました。これに対して、「鏡の自己」、「器の自己」実践者の中には、違和感や疑問を持たれた方もおられるかもしれません。
その疑問に関して、それぞれの立場から洞察の試みをなされた方が、どれほどおられたでしょうか?
ここで、念のために、私の拙い宗教哲学的考えを、結論のみに近い内容になりますが、実践者としてお伝えしておきたいと考えます。

西田哲学では、あらゆる対象を包む意識の底に「絶対無の場所」を説きます。それは、「内在的・作用的方向の極限」に考えられるものとされています。私たちが日頃実践している「鏡の自己」も、そこに於いてあるものとされます。したがって、「絶対無の自覚」とは、私たちの根底が「絶対無であるということの意識」「自己自身を映す鏡という如きもの」といった、宗教的意識ということになります。その「絶対無」における無とは、有無の無ではなく形としては存在しないが「作用としては存在する」、という意義を持つと解釈されるのが一般です。

私は、前回紹介した天風氏の「力の誦句」と、この西田哲学の「絶対無の場所」は、究極的にはほとんど同じ哲理を説かれていると捉えています。先ほどお伝えしたように、西田哲学における「絶対無」とは、形として存在しないが「作用としては存在する」ものとされます。
個人的な見解ということを重ねてお伝えしておきますが、この「内在的・作用的方向の極限」である「絶対無の場所」に、天風氏が説かれた「力」も作用を生み出すものとして存在すると、私は捉えています。

天風氏は、宇宙の根源にある完全なる「力の波動」と同調している時には、悲観的で消極的な思考や感情に陥ることはなく、心身は共に健全な状態に保たれると説きます。宇宙創造の力と積極的に同調して行くことの大切さを説きます。
現代において重視される科学的な観点から述べるならば、世界を構成していると言える極微の量子には、「電磁気力・弱い力・強い力、そして重力」という、四つの力が作用していることが分かっています。つまり、この世界を始源的・創造的かつ変化的に捉えた時(「宇宙物理学的に捉えた時」と言ってもよいのかもしれませんが、専門家ではないので止めておきます)、これらの四つの力によってこの世界はできていると言えるのです。

いずれにしても、この「四つの力による作用」が私たちの存在の根底にあるということは、現代において科学的に導出された事実と言えるでしょう。つまり、これらの「力」こそが、世界における存在の「真実主体」であると捉えることができるのです。私たちは、その「真実主体」が生み出した「客体的主体」であると、西田哲学の初期的な捉え方、つまり主客同一的な捉え方である直観から言えるのです。その時、西田哲学で説かれた「絶対無の場所」にあると言える「人格的自己」は、天風氏が説く「無限我の現れである力」と、私の理解の中では同一化することになるのです。
力とは全てを包む真実在であり、天風氏が説かれた「力の誦句」は、個人へのポジティブな勇気づけというようなちっぽけな意義を背後に持つものではなく、箴言であると個人的には捉えています。宇宙創造の力であれ、宇宙の根源的統一力であれ、鏡に映す力も、包む力も、全ては力です。

天風氏は、次のように述べています。
「・・・(前略)。自分の生命に与えられた力は一切の生物を凌駕して強い力をもっている、いわば力の結晶と同様のものだという考え方が断固として自分の心のものにならんかぎりは、ちょいとした風邪ひとつひいても、それを長引かし、わずかな出来事にもすぐ心は、まるで木の葉が大海原の大きな波に弄ばれると同じになるぞ。どんな場合にも、『自我のなかに宿る無限我』ー 要するに宇宙霊、言いかえれば造物主の持っているエネルギーの分派分量をよけいいただいていることを『自我のなかに宿る無限我』というんだが、それをおろそかにしないこと。・・・(後略)。」

私的な解釈に基づけば、西田先生の次の句も、「客体的主体」としての大河の一滴である私達の存在、そして包むものとしての「真実主体」への眼差しを、目に見える波動と共に力強く喚起します。 
「天地(あめつち)の分れしときゆ よどみなくゆらぐ海原 見れど飽かぬかも」

自己の内には、一木一草に囚われていたことに「気づかせ」、その瞬間に森を映し出す「力(鏡)」があります。
その力が働いた瞬間に、それまで囚われていた狭量世界は一変し、新たな創造的世界への現実世界が現出します。
私は、これらを洞察して、次のように思います。
「『客体的主体』である一人一人が、『真実主体』からそれぞれに与えられた力を尽くす。私たちは、それしかできないのだ。したがってそれで充分なのだ。結局は、それが、誰にとっても望ましいことなのだ。つまり、その力を尽くす時には、鏡に映しだされた自己の影が、天風氏によって説かれた『力の誦句』を体現していることが望ましいのだ。」

私たちそれぞれは、「力の子」であり(この様な言葉を用いると人によっては危険な香りがするかもしれませんが)、この力を断固として信じて行動化するところに、「客体的主体」の存在(意義)があるのです。
「人格的自己」(西田幾多郎)や「無限我」(中村天風)を、「鏡の自己」を通して鍛錬し信念化する中で、己の力を尽くしていくことが大事なのです。
五木寛之氏が説かれる「全力を尽くし執着を手放したとき、”他力の風”が吹く。」のは、この様なところから生まれるのだと捉えています。
つまり、”他力の風”は「真実主体の意志」、とも言えるものなのです。

以上、現段階における私の見解を、臆面もなく綴ってまいりました。
ただ、これを読まれて、それぞれがどの様な考えを持たれるにしても、いつもの様に最後に強調しておきたいことがあります。
「これや、それらは言語であって、それぞれにおいて内から真に体験された経験ではありません。」

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