運動の究明


私は、力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。
そうだ! 強い、強い、力の結晶だ。

以前、中村天風氏による、この「力の誦句」を紹介しつつ、「すべては力による存在」だと述べました。それ以前においては、天風氏の「力の誦句」と西田哲学の「絶対無の場所」は、究極的にほとんど同じ哲理を説かれていると考えるとも述べました。
私たちが存在すると認識しているこの世界の実相、つまりこの意味世界の実相を観ると、物理的に全てに「力」が必要であると言えます。
それは、観察可能性や数量化さらには予測可能性等々の「科学性」につながるものです。

西田先生は、ご自身の哲学について次のように述べられています。
「私は宗教的体験の立場から論じているのではない。歴史的現実の徹底的な論理的分析からいっているのである。しかもその単に構造を分析しているのではなく、その運動を究明しているのである。」
哲学用語「運動」は、様々な動きに伴う「変化」という意義を持ちます。この意味世界において唯一変化しないものは、釈尊がとく無常すなわち変化と言えます。
このような基底的探求心から導き出され提案されたのが「場所的論理」と言えるのです。西田先生が、京都大学において『基礎数学』を著され、宇宙物理学者アインシュタインの日本への招聘に熱心であったのも、当然のことと肯けます。
「西田教」となるのは問題に思えますが、西田哲学を宗教的とのみ概括して捨象してしまうと、実在する人間として極めて深刻な過ちを犯してしまうことになるように思えます。西田先生の言葉をかりれば、「自己自身の内に表現せられた、自己内映像において、自己の実在性を有つ。」のです。
これらの事情を汲みながら、歴史的事実および実践を通じての宗教的事実をも包括することが、大切なのだろうと考えます。

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