「自力」と「他力」

 釈尊曰く「己こそ己のよるべ 己をおきて誰によるべぞ よくととのえし己こそ まこと得難きよるべなりけり」

 災難は、予想もしない時に予想もしない形で襲ってきます。
その時に真に頼りになるのは、「その時が唯今 唯今がその時」と捉えて、日常において培ってきた己をととのえる力です。
日常の様々な行動において、意識を丹田に置き、色々な思考に囚われないで自己を洞察する練習をしていますが、人生で何事を経験しようと、意識をそこ(例えば丹田)に置けば、意識はそこに留まることを経験されているはずです。意識をそこに置けば、人生はそこにあります。
良く知られた中村天風氏が言われていたようですが、「人生は心ひとつの置きどころ」です。「今・ここ」で意識をどこに置くかによって、人生は左右されて来ます。

 ところで、新型コロナウィルス問題の現状は、やや落ち着きを取り戻して来たように見えますが、医療資源が不足気味であり、患者の真の全体像も把握できておらず、その制御方法の把握についても極めて限定的といった状況です。
私は臨床心理士ですが、現段階においてサイエンスの面とアートの面があると言われる心理臨床を持ち込むと、ややこしいことになるのではと捉えています。医療体制や患者の全般状況は上述のとおりであり、陽性者の無症状可能性の高さや急激な重症化等も考えた時、日々変化しているであろう病院等の体制や態勢への情報不足は、余計な混乱を生む可能性があります。医療業務の現状把握の不足に基づく不用意な一言が、却って当事者と現場を混乱に陥らせかねないと考えて、個人的にはコロナに係わる電話相談等は受けずに来ています。
したがって、現段階においては、必然的に釈尊の冒頭の言葉を皆さんに強調することになります。平時が有事であり、有事が平時、と言えるライフに重きを置いて、行動することになります。

 以前、この世界の二元性について綴りましたが、ここでも宗教的な言葉を用いれば、「自力」と「他力」といったことが関係してきます。この二元性をどの様に理解して行くかが大事なことになってきます。
私は、平時の平凡な行動を、疎かにしないことが極めて重要だと捉えています。そのように、「日常において力を尽くした結果」として、「よくととのえし己」は生まれると言えます。その「よくととのえし己」が「今・ここ」で力を尽くし、「あるがままの結果」を諦めて受け入れるより他にないと、基本的にはそう捉えています。

 新型コロナウィルス問題に戻りますが、その不安や恐怖心が、ウィルスの問題ではなく心のみに起因するものであることに確信が持てない中で、様々な方向からその原因に対して心理的所見を述べ、あるいは共感的に傾聴することは、当事者に誤った情報を与え誤判断を生じさせかねないと私は捉えています。日頃の心の相談においても、そのような危険性は含まれていますが、それは医者の了解を得た中での共通認識の下での行動となっているはずです。
今回のような症状の発現状態が一様ではなく、未だによく解明されていないウィルスが原因として考えられる中でのこととなると、そこでは極めて専門的な知識と高度な判断を要することになるに違いないと、個人的には捉えています。

ここで、最初にご紹介した中村天風氏の「力の誦句」をご紹介しておきます。

私は、力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、否、あらゆるすべてのものに打克つ力だ。
そうだ! 強い、強い、力の結晶だ。

この絶対的な「力の誦句」に疑問を持たれる方もおられますが、自分を信じ「自力を尽くす」ことは極めて大事なことでしょう。
そして、あるがままの結果を受け入れて執着を放す。五木寛之氏は、その時になって初めて「他力の風が吹く」と説かれます
最近、宗教的な言葉が多くなっていますが、ご容赦ください。

この記事へのコメント