「鏡の場所」

西田哲学では、あなたは世界と絶対的一者との結合点です。
「絶対無の場所」であり「矛盾的自己同一」の場所です。
西田先生は、禅の徹底的実践と徹底哲学を通じて、実在の最深部をそう結論されたのだと、私は理解しています。
自我から脱出した自己は、世界の一観点としての実在であると。
それは世界が自己自身の内に自己を映す一つの仕方であると。
つまり、西田先生は直観即反省の「鏡の場所(絶対無の場所」に、真実在を見出されたのだと理解しています。
しかも誤解してはならないのは、宗教哲学ではないとする西田先生の捉え方では、運動に重点を置いた「配景の一中心点」なのです。

人生において、自我は様々な揺さぶりをかけてくるでしょう。
しかし、自我(私)から見ている限り、自分の関心事(点)しか見えません。
視座を、私を包む「鏡の場所」に「移動」した瞬間に、自我から脱出して全体が見え始めます。
それが、鏡による絶対無の実践と私は理解しています。

その実践の繰り返しと継続で、思考や日常を超越した現象あるいは反応が現実的に生まれるかもしれません。
量質転化が起きるかもしれません。
やり続けなければ分かりません。
「全てがそこからそこへ」についての実践の話をしているのですから。
最近は難しい言葉を多用していますが、これは陥り易い言語的理解などという小手先の話をしているのではありません。
最も困難な「鏡の場所」に留まる実践をこそ勧めているのです。

運動の究明


私は、力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。
そうだ! 強い、強い、力の結晶だ。

以前、中村天風氏による、この「力の誦句」を紹介しつつ、「すべては力による存在」だと述べました。それ以前においては、天風氏の「力の誦句」と西田哲学の「絶対無の場所」は、究極的にほとんど同じ哲理を説かれていると考えるとも述べました。
私たちが存在すると認識しているこの世界の実相、つまりこの意味世界の実相を観ると、物理的に全てに「力」が必要であると言えます。
それは、観察可能性や数量化さらには予測可能性等々の「科学性」につながるものです。

西田先生は、ご自身の哲学について次のように述べられています。
「私は宗教的体験の立場から論じているのではない。歴史的現実の徹底的な論理的分析からいっているのである。しかもその単に構造を分析しているのではなく、その運動を究明しているのである。」
哲学用語「運動」は、様々な動きに伴う「変化」という意義を持ちます。この意味世界において唯一変化しないものは、釈尊がとく無常すなわち変化と言えます。
このような基底的探求心から導き出され提案されたのが「場所的論理」と言えるのです。西田先生が、京都大学において『基礎数学』を著され、宇宙物理学者アインシュタインの日本への招聘に熱心であったのも、当然のことと肯けます。
「西田教」となるのは問題に思えますが、西田哲学を宗教的とのみ概括して捨象してしまうと、実在する人間として極めて深刻な過ちを犯してしまうことになるように思えます。西田先生の言葉をかりれば、「自己自身の内に表現せられた、自己内映像において、自己の実在性を有つ。」のです。
これらの事情を汲みながら、歴史的事実および実践を通じての宗教的事実をも包括することが、大切なのだろうと考えます。

「今・ここ」しかない

欧米のマインドフルネスが「今・ここ」を強調するあまり、仏教が持つ「広さと深さ」が失われたと、仏教界のあるお方は述べておられます。
浅学の私から見ても、確かに、仏教には広さと深さが認められます。
しかし、その様な「広さと深さ」も、「今・ここ」からしか生まれません。
全ては、そこに始まりその変化の中で起きており、終始・古今は無常・無限の中にあります。
この意識世界は、終始古今無常無限です。
「今・ここ」で刹那刹那に滅即生を繰り返しながら、無常であり無限であるのです。
その中に過去や未来は含まれているのであり、「今・ここ」に青春時代も壮年時代も含まれているのです。
だから、そこから意識される人生はあっという間なのです。

「自覚的に」今年を振り返ると、僅かな時間ではありましたが、本年も「今・ここ」に共に存在することができました。
力をいただき、ありがとうございました。
釈尊曰く「過ぎ去れるを追うことなかれ 未だ来ざるを思うことなかれ 過去はすでに過ぎ去りたり 未来は未だ到らざるなり さればただ現在するところのものを そのところにおいてよく観察すべし 揺らぐことなく、動ずることなく そを見きわめ、そを実践すべし ただ今日なすべきことを熱心になせ」(by プラユキ ナラテボー)
来年も、「現在するところのものを そのところにおいて」、共に深く洞察してまいりましょう。

自覚について

西田先生は、鈴木大拙全集「序」において、「大拙君は高い山が雲の上へ頭を出しているような人である。そして、そこから世間を眺めている、否、自分自身をも眺めているのである。」と述べておられます。この文は、西田哲学における重要概念「自覚」、いや、「絶対無の自覚」から述べられたものであり、言葉を変えれば、大拙先生への西田先生の敬愛の深さを表したものと言えるのではないでしょうか。
西田先生は、哲学論「自覚について」の中で、「絶対無の自覚とは、すべてのものを自己の影として自己の内に映す」ことであり、「絶対無の自覚は絶対無が自覚することであると同時に絶対無を自覚することである」と、その弁証法的意義を説かれています。

上記「絶対無」の自覚における「自己の内に映す」ことについて考察すると、そこに自我やエゴが介在すれば、すべてのものを映すことはできません。
したがって、すべてのものを自己の影として自己の内に映し出すには、いわば「純粋鏡」とならなければなりません。この実践に私たちは日々努めているわけですが、これはいわゆる瞑想とは異なります。瞑想は、欧米のマインドフルネスがそうであるように、自分自身がリラックスしたり楽しんだりすることも含まれます。勿論、それはそれで意義あるものです。
ただ、西田先生による「絶対無の自覚」、言いかえれば「鏡の自己」においては、エゴが介在する余地は極限化されなければなりません。これは、禅の徹底実践と様々な学を包みこなした西田哲学における、自己の実在性に関するキーワードであることを銘記しておくべきでしょう。

以前、幸田露伴氏の書における「鷲は天の高きを翔りて、双眸の裏に幾十里の山河急谷の位置形勢を入るるものなり」という言葉を紹介しました。
これを、西田哲学における「絶対無の自覚」からみれば、鷲は天の高きを翔る鷲であると同時に、鷲自身が見えていなければなりません。この点が、幸田露伴氏が説かれた鷲と大拙先生の大きく異なるところです。自覚においては、直観的であると同時に反省的でなければならないのです。
この「鏡の自己」の自覚に至らなければ、修行によって高い集中力や安定力を得られた方であっても、その行動に自我が密かに混在してしまい、行動力の高さゆえにと言ってよいかと思いますが、人々を苦しめる結果になる危険性さえあるのです。

「今・ここ」に向かう力

「唯今がその時、その時が唯今」

私たちは、現在確認されているデータによって判断を誤りがちです。
現在、コロナはデータ的には落ち着いていますが、それは過去を意味するものです。
この点を普通に押さえていないと、自覚がどうしても浅くなりがちです。
そして第3波を招来してしまうのです。

経済活動を止めようと言っているのではありません。
警戒心を持って行動しようという普通のことを言っているのです。

すべては力

五木寛之氏の『大河の一滴』という本が、今また多くの方に読まれているそうです。
新型コロナウィルス問題も関係しているのでしょうか。

二ヶ月半ほど記事掲載をお休みいたしましたが、ここにきて、また新型コロナ感染者が徐々に増えてきています。
くわえて、世界にあっては、今なお感染拡大の傾向にあります。現代は既にグローバル化しており、各国のつながりが強化された状態にあります。この現状を俯瞰すると、いずれ諸国間の出入国制限はとかれ、多少とも「世界の中でウィズコロナ」の生活をおくって行かねばならなくなるでしょう。
私たちは、大河の一滴として、その流れの中で生きて行く力を求められることになるに違いありません。

ところで、最近のブログ記事では、「己を整える力」の大切さに加えて、与えられた力を尽くすための、「力の誦句」を紹介してまいりました。これに対して、「鏡の自己」、「器の自己」実践者の中には、違和感や疑問を持たれた方もおられるかもしれません。
その疑問に関して、それぞれの立場から洞察の試みをなされた方が、どれほどおられたでしょうか?
ここで、念のために、私の拙い宗教哲学的考えを、結論のみに近い内容になりますが、実践者としてお伝えしておきたいと考えます。

西田哲学では、あらゆる対象を包む意識の底に「絶対無の場所」を説きます。それは、「内在的・作用的方向の極限」に考えられるものとされています。私たちが日頃実践している「鏡の自己」も、そこに於いてあるものとされます。したがって、「絶対無の自覚」とは、私たちの根底が「絶対無であるということの意識」「自己自身を映す鏡という如きもの」といった、宗教的意識ということになります。その「絶対無」における無とは、有無の無ではなく形としては存在しないが「作用としては存在する」、という意義を持つと解釈されるのが一般です。

私は、前回紹介した天風氏の「力の誦句」と、この西田哲学の「絶対無の場所」は、究極的にはほとんど同じ哲理を説かれていると捉えています。先ほどお伝えしたように、西田哲学における「絶対無」とは、形として存在しないが「作用としては存在する」ものとされます。
個人的な見解ということを重ねてお伝えしておきますが、この「内在的・作用的方向の極限」である「絶対無の場所」に、天風氏が説かれた「力」も作用を生み出すものとして存在すると、私は捉えています。

天風氏は、宇宙の根源にある完全なる「力の波動」と同調している時には、悲観的で消極的な思考や感情に陥ることはなく、心身は共に健全な状態に保たれると説きます。宇宙創造の力と積極的に同調して行くことの大切さを説きます。
現代において重視される科学的な観点から述べるならば、世界を構成していると言える極微の量子には、「電磁気力・弱い力・強い力、そして重力」という、四つの力が作用していることが分かっています。つまり、この世界を始源的・創造的かつ変化的に捉えた時(「宇宙物理学的に捉えた時」と言ってもよいのかもしれませんが、専門家ではないので止めておきます)、これらの四つの力によってこの世界はできていると言えるのです。

いずれにしても、この「四つの力による作用」が私たちの存在の根底にあるということは、現代において科学的に導出された事実と言えるでしょう。つまり、これらの「力」こそが、世界における存在の「真実主体」であると捉えることができるのです。私たちは、その「真実主体」が生み出した「客体的主体」であると、西田哲学の初期的な捉え方、つまり主客同一的な捉え方である直観から言えるのです。その時、西田哲学で説かれた「絶対無の場所」にあると言える「人格的自己」は、天風氏が説く「無限我の現れである力」と、私の理解の中では同一化することになるのです。
力とは全てを包む真実在であり、天風氏が説かれた「力の誦句」は、個人へのポジティブな勇気づけというようなちっぽけな意義を背後に持つものではなく、箴言であると個人的には捉えています。宇宙創造の力であれ、宇宙の根源的統一力であれ、鏡に映す力も、包む力も、全ては力です。

天風氏は、次のように述べています。
「・・・(前略)。自分の生命に与えられた力は一切の生物を凌駕して強い力をもっている、いわば力の結晶と同様のものだという考え方が断固として自分の心のものにならんかぎりは、ちょいとした風邪ひとつひいても、それを長引かし、わずかな出来事にもすぐ心は、まるで木の葉が大海原の大きな波に弄ばれると同じになるぞ。どんな場合にも、『自我のなかに宿る無限我』ー 要するに宇宙霊、言いかえれば造物主の持っているエネルギーの分派分量をよけいいただいていることを『自我のなかに宿る無限我』というんだが、それをおろそかにしないこと。・・・(後略)。」

私的な解釈に基づけば、西田先生の次の句も、「客体的主体」としての大河の一滴である私達の存在、そして包むものとしての「真実主体」への眼差しを、目に見える波動と共に力強く喚起します。 
「天地(あめつち)の分れしときゆ よどみなくゆらぐ海原 見れど飽かぬかも」

自己の内には、一木一草に囚われていたことに「気づかせ」、その瞬間に森を映し出す「力(鏡)」があります。
その力が働いた瞬間に、それまで囚われていた狭量世界は一変し、新たな創造的世界への現実世界が現出します。
私は、これらを洞察して、次のように思います。
「『客体的主体』である一人一人が、『真実主体』からそれぞれに与えられた力を尽くす。私たちは、それしかできないのだ。したがってそれで充分なのだ。結局は、それが、誰にとっても望ましいことなのだ。つまり、その力を尽くす時には、鏡に映しだされた自己の影が、天風氏によって説かれた『力の誦句』を体現していることが望ましいのだ。」

私たちそれぞれは、「力の子」であり(この様な言葉を用いると人によっては危険な香りがするかもしれませんが)、この力を断固として信じて行動化するところに、「客体的主体」の存在(意義)があるのです。
「人格的自己」(西田幾多郎)や「無限我」(中村天風)を、「鏡の自己」を通して鍛錬し信念化する中で、己の力を尽くしていくことが大事なのです。
五木寛之氏が説かれる「全力を尽くし執着を手放したとき、”他力の風”が吹く。」のは、この様なところから生まれるのだと捉えています。
つまり、”他力の風”は「真実主体の意志」、とも言えるものなのです。

以上、現段階における私の見解を、臆面もなく綴ってまいりました。
ただ、これを読まれて、それぞれがどの様な考えを持たれるにしても、いつもの様に最後に強調しておきたいことがあります。
「これや、それらは言語であって、それぞれにおいて内から真に体験された経験ではありません。」

「自力」と「他力」

 釈尊曰く「己こそ己のよるべ 己をおきて誰によるべぞ よくととのえし己こそ まこと得難きよるべなりけり」

 災難は、予想もしない時に予想もしない形で襲ってきます。
その時に真に頼りになるのは、「その時が唯今 唯今がその時」と捉えて、日常において培ってきた己をととのえる力です。
日常の様々な行動において、意識を丹田に置き、色々な思考に囚われないで自己を洞察する練習をしていますが、人生で何事を経験しようと、意識をそこ(例えば丹田)に置けば、意識はそこに留まることを経験されているはずです。意識をそこに置けば、人生はそこにあります。
良く知られた中村天風氏が言われていたようですが、「人生は心ひとつの置きどころ」です。「今・ここ」で意識をどこに置くかによって、人生は左右されて来ます。

 ところで、新型コロナウィルス問題の現状は、やや落ち着きを取り戻して来たように見えますが、医療資源が不足気味であり、患者の真の全体像も把握できておらず、その制御方法の把握についても極めて限定的といった状況です。
私は臨床心理士ですが、現段階においてサイエンスの面とアートの面があると言われる心理臨床を持ち込むと、ややこしいことになるのではと捉えています。医療体制や患者の全般状況は上述のとおりであり、陽性者の無症状可能性の高さや急激な重症化等も考えた時、日々変化しているであろう病院等の体制や態勢への情報不足は、余計な混乱を生む可能性があります。医療業務の現状把握の不足に基づく不用意な一言が、却って当事者と現場を混乱に陥らせかねないと考えて、個人的にはコロナに係わる電話相談等は受けずに来ています。
したがって、現段階においては、必然的に釈尊の冒頭の言葉を皆さんに強調することになります。平時が有事であり、有事が平時、と言えるライフに重きを置いて、行動することになります。

 以前、この世界の二元性について綴りましたが、ここでも宗教的な言葉を用いれば、「自力」と「他力」といったことが関係してきます。この二元性をどの様に理解して行くかが大事なことになってきます。
私は、平時の平凡な行動を、疎かにしないことが極めて重要だと捉えています。そのように、「日常において力を尽くした結果」として、「よくととのえし己」は生まれると言えます。その「よくととのえし己」が「今・ここ」で力を尽くし、「あるがままの結果」を諦めて受け入れるより他にないと、基本的にはそう捉えています。

 新型コロナウィルス問題に戻りますが、その不安や恐怖心が、ウィルスの問題ではなく心のみに起因するものであることに確信が持てない中で、様々な方向からその原因に対して心理的所見を述べ、あるいは共感的に傾聴することは、当事者に誤った情報を与え誤判断を生じさせかねないと私は捉えています。日頃の心の相談においても、そのような危険性は含まれていますが、それは医者の了解を得た中での共通認識の下での行動となっているはずです。
今回のような症状の発現状態が一様ではなく、未だによく解明されていないウィルスが原因として考えられる中でのこととなると、そこでは極めて専門的な知識と高度な判断を要することになるに違いないと、個人的には捉えています。

ここで、最初にご紹介した中村天風氏の「力の誦句」をご紹介しておきます。

私は、力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、否、あらゆるすべてのものに打克つ力だ。
そうだ! 強い、強い、力の結晶だ。

この絶対的な「力の誦句」に疑問を持たれる方もおられますが、自分を信じ「自力を尽くす」ことは極めて大事なことでしょう。
そして、あるがままの結果を受け入れて執着を放す。五木寛之氏は、その時になって初めて「他力の風が吹く」と説かれます
最近、宗教的な言葉が多くなっていますが、ご容赦ください。