平和を願い再掲

ウクライナが地獄の苦しみの中にあります。
次の内容は、10年ほど前にブログに掲載し、既に削除していたものです。
昨今の国内外の様相を観て、当時に載せていたまま再掲いたします。


【2013.5.25に掲載したもの】
ブログではあっても、以下を載せるのは臨床心理士として問題があるのではと考えましたが、記載することに決めました。躊躇したために、掲載がやや遅くなってしまいました。これから述べることは、あくまで個人的な見解です。
TBSのドラマ『空飛ぶ広報室』を観ての、現役時代に考えていたことを含めた感想です。TBSの番組表には次のような説明がのっていました。

戦闘機パイロットの夢を不慮の事故で断たれた空井大祐29歳が、転属先の航空幕僚監部広報室で出会ったのは、テレビ・ディレクター稲葉リカ25歳だった。
大の自衛隊嫌いのリカの言葉に刺激されながら、空井は、少しずつ新しい夢を追い始める。
鷺坂室長 (またの名を詐欺師鷺坂) をはじめ、強引勝手な広報幹部・片山や、残念な美人・柚木、下士官として広報室を支える比嘉など、ひと癖もふた癖もある先輩たちに囲まれて、空井とリカが、新たな夢に向かって羽ばたく様子を描く長篇小説。直木賞候補作にもなった。

私自身が戦闘機に乗っていたこともあり、どうしても二つのことについて載せておきたくなりました。

一点目は、パイロットへの道を断たれるということについてです。
私は、一時期、初級操縦課程の教官をしていましたが、その任務上数名の学生パイロットのエリミネート(パイロット免)に関わっています。学生はパイロットになることを目指して必死ですが、徒弟制度の様な中で担当教官も何とかして学生の技量を上げようと力を尽くします。それだけに、パイロット免となった者の辛さを教官も強く感じていました。
しかし、ここで載せておきたかったのは、その辛さについてではなく、パイロット免となった学生のその後の姿です。エリミネートになった後も、彼らはふて腐れることもなく、恨み事を言うでもなく、皆に見送られて淡々と操縦教育の現場から去って行きました。勿論、いろんな感情が実際は渦をなしていたでしょうし、担当教官には心情を吐露していたでしょうが、私が観てきた限りでは、本当に尊敬に値するものでした。このような行動は他の世界にも存在していて、そうでありながら表に出ることは、ほとんどないのでしょうが、私には強い印象となって残っています。パイロットの道を歩み続けることも大変ではあるのですが、パイロット免となった後の彼らの行動には、自然に頭が下がります。
彼らの多くは、その後、他の職種に進み、立派にその道を歩んで、航空自衛隊の任務を支えています。

もう一点、触れておきたかった大切なことがあります。
今迄、自衛隊をこれほど自然な目で捉えたドラマはあったでしょうか。私の記憶の中にはありません。
多くのドラマあるいはニュースは、自衛官を無視したり、あるいは戦前の一部軍人の非人間的な行動と暗に結びつけたりしたものがほとんどではなかったのでしょうか。一昨年の東北大震災以降、自衛隊に対する捉え方もかなり変わってきたようには思えますが・・・。
しかし、実は自衛官とて心ある人間です(笑)。私は社会人学生として学ばせていただいた大学で、「貧乏人は自衛隊に行けばいい」と学生の前で放言されるような教授が、未だにおられるのを情けなく感じた経験があります。勿論、大半の先生方は良識を持って普通に接していただきました。加えて、ごく一部の先生には尊敬の念を抱いています。人権主義を標榜していながら、自分の嫌いな職種の人間に対しては有無を言わさず、その人権を認めない方がおられます。このような実態に遭遇すると、東京裁判史観的な思想に思わず引きずられそうになります。

私は、現在の世界においては、つまり現在論・現実論としては防衛力が必要と判断している人間ですが、武装、非武装のどちらが本当に正しいのか誤っているのか、それは正直なところ分かりません。とは言え、仏法においてさえも、仏の住む四方向の守護神として四天王を配置しているのは事実でしょう。
ただ、防衛力を保持する立場を選択するにしても、そこには、「銃や砲弾が世界を支配していてはいけないのです。世界を支配していいのは、愛なのです。」とマザーテレサが述べているように、愛こそが基盤に、センターに置かれていることが必要だとは、考えています。

二元論になりますが、世の中のことは何が善(正義)で何が悪かは、その関係性の中で相対的に生まれ来るものであって、絶対ではあり得ないのは明白です。宗教や民族が、あるいは歴史が異なれば、物事の見方は百八十度変化するものです。また、パイロット生活の中で十分自覚認識させられましたが、どれほど注意をしていても人間の過ちは生まれるのです。生命の危険にさらされる中にあってさえも、人間は過ちをおかす動物なのです。加えて、生命に危険が及んでいる状況下では、更に過ちをおかしやすい存在なのです。器材の故障や操縦に起因する事故で、多くの仲間や先輩後輩を亡くしました。絶対はあり得ません。航空機のシステムもフェイル・セイフ構造になっていて、器材が故障しても代替手段によって安全が保たれるように設計されています。加えて、私たちは社会において役割(の束)を背負っていて、異なった役割の立場に立つごとに、判断基準が異なって来てしまうものです。
したがって、国家、民族や宗教、あるいは職業さらには性別に起因する対立さえ生まれる可能性があり、フェイル・セイフ的構造の下、その対立の原因や対策についてこそ必死に取り組む必要があると考えています。自衛隊は武力を持っているから平和的な存在そのものではないとしても、現代においては、それを受け入れ包み込む力が必要ではないのでしょうか。そして、その武力を保持する組織を安全に維持し運用するシステムづくりもしっかりと継続的に見直していく必要があるのでしょう。戦前の天皇による軍に対する統帥権から生じるような問題は、現代では克服されていますが、状況の変化に対応できるよう今後もより望ましい形に改善していく必要があるでしょう。

マインドフルネスを実践している立場から述べさせていただくならば、まずは世界の実態に気づくことが必要なのです。「戦争反対」や「戦争は二度としてはいけない」などと理想論を述べるだけでは、平和は維持できないでしょう。戦争は一方的に始まること(侵略)も十分あり得るからです。そして民族あるいは宗教的対立や紛争の存在は否定できません。あるがまま(対立)を認め、その対立をなくすことにこそ全力を注ぐべきでしょう。全力とは、話し合い一本やりの主義主張とは全く異なります。あるがままを認め、それぞれの価値観への囚われを放し譲れるところは譲るところからしか、世界的病は解決に向いそうにありません。残念ながら現代の政治やマスメディアには、そこに至る力が決定的に不足しているようです。

ところで、私は戦闘機操縦士として勤務していた時に、戦闘機乗りですと自己紹介すると、「普通の方なので安心しました」という言葉を何回かお聞きしました。戦闘機乗りといえども人間ですし、普通の方と全く変わりません。いや、操縦適性検査で性格検査等も行われた結果の採用ですので、統計的に見て本当に一般的で平均的かつ安全な存在(笑)だと思います。
そのような存在ではあるのですが、殺傷能力の高い兵器を扱うことには変わりありません。だからこそ、今も戦闘機乗りには、ただ強さだけを追求する暴力団の様な在り方とは一線を画した人間性を保持してほしいと思っています。武力を保持しているがゆえに、必要悪としての負い目もしっかりと受け止めて、その上で、静かで謙虚な存在であってほしいのです。残念ながら自衛官に日が当たる時は、国民に不幸な出来事があった時です。その不幸の中でいかに自衛官が活躍しようとも、それは自分が選んだ貢献の道であり、決してその活動への注目に満足するようなことがあってはならないのだと思います。
理想論を述べているつもりはありません。現在論・現実論です。誰かがこの道を選択する必要があるとも思います。この世界は常に変化の中にあって、変化しつつある様々なものや状態から複雑に成り立っています。草があれば花があり、田畑に潤いをもたらす川があれば洪水で決壊する時もあり、穏やかな日があれば嵐の日があります。自然は変化の中にあって、安定もあれば不安定もあって、予想もしなかったことが生起してしまうのがこの世界です。そして、人間はそれらとつながっていて、自然の一部なのです。

第2話でしたか第3話でしたか、パイロットの結婚式において新婦に対して「ご主人を送り出す時は、必ず笑顔で!」と、広報室長がお祝いの言葉を述べるシーンがありました。現役時代に飛行隊の家族パーティーにおいて、隊長の挨拶でよく聞かれた言葉です。いかに自分が辛い事があったとしても、それが戦闘機乗りを夫とした妻の務めであり、戦闘機乗りが日頃大事故を起こさず、国民に迷惑をかけることなしに、事ある時は国民の負託にこたえることができる夫婦での条件づくりです。これを時代錯誤と取られる方もおられるかもしれませんが、草もあれば花もある世界なのです。そのような中でも、誇りや絆が更には楽しみが生まれるものです。

戦闘機乗りは目立つ必要はない、目立つべき存在ではない。だから黙々として任務に励む存在であってほしい。そのような存在であってこそ、逆説的ですが、戦闘機乗りや自衛官は国民から尊敬されるに違いないと信じています。一方、日頃非暴力を声高に訴えて自衛隊を批判しておきながら、いざ自分自身が危うい立場になってくると、ヒステリックに相手や自衛隊の専守防衛さえも批判攻撃するような在り方には、失望してしまいます。

薬師寺管長だった高田好胤老子がおっしゃっていたとされる「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心。ひろく、ひろく、もっとひろく」というのが私たちが目指すべき立ち位置ではないのでしょうか。
今回の空飛ぶ広報室には、このような基本的な姿勢が感じられたのです。武力を持った自衛官をさえ包み込む温かさや深さ広さがあり、そのスタッフや出演者の調和がとれていて、渇いた心が潤いを取り戻せたように感じました。
本質を押さえながらの偏見にとらわれない中立的で多様な人間描写は、かつてのドラマや様々な番組のコメントでは観られなかったものであり、作家やドラマ化を決定された方々、そして活き活きと演じておられる役者ならびに撮影スタッフなどの力を感じます。

背骨を軋ませながらも、ひたすら飛行訓練に明け暮れた三十数年間、日本が平和であったことに心から感謝の念がわいてきます。
末永く平和でありますように、末永く世界に対してマインドフルでありますように。

事故で亡くなられた先輩、同期、そして後輩の方々 どうか安らかに。

信念化する

天風氏の力の誦句を紹介してきました
全ては力によると信じているからです
ただこの誦句を勘違いする方もいます
合気道達人の誰かが述べられています
すべてに打ち克つなどとんでもないと

しかし全てに打ち克つ信念は必要です
心が弱気に向かえば結果は見えてます
酷寒時に寒いという心を源に持つのか
全てに打ち克つ力を心に宿して行くか
この間には決定的差が存在しています

生きている間は力を信念とすべきです
全ては力であり力が命を支えています
その時が唯今と繰り返し続けましょう
繰り返しと継続が信念を内在化します
もの事の主はいつも心に宿っています

心と身体

心と身体は別物だということは明白な事実です。
しかし、心と身体がつながっているということも事実です。
だから、私たちは西田哲学を応用したSIMTを学んできてはいますが、そこに囚われないことが大切です。
西田哲学は、心の哲学とも言うべきものであり、身体の哲学ではありません。
私がSIMTに注目したのは、運動を軽視していなかったこと、科学的であったことにあります。
身体と心のつながりを仏教では心身一如とも言います。
だから、身体も哲学すべきであり、それによって初めて私を知ることができるのです。
身体と心は全く関係がないなどと捉えるべきではありません。
真の洞察は、心と身体の両方に対してなされるべきものです。
私がスワイショーによる身体(運動)の洞察に重きを置いている理由はそこにあります。
心は身体によって支えられているものです。一方、身体は心による影響を強く受けています。
私という実在は、その中で維持されているものです。
その根本的・基本的な事柄に対して無知であってはなりません。

大谷翔平選手の目標はどこに?

大リーグで活躍している大谷選手は、確かに凄い!
でもこれは、単なる野球選手としての大谷選手について言っているのではありません。

大谷選手は中村天風先生の書を読んでいたと言われています。
天風先生は究極的には何を説かれていたのか?
それは、私たちが何のために生きているのかということに尽きると思います。
そのことを、先生は「真・善・美」にあると説かれています。
西田哲学でも至誠を最善なるものとしていますが、ここにおける「真」とはその「誠」を意味しています。
これは想像にすぎませんが、その一挙手一投足を見ていて、大谷選手の目標は多くの方の想像を超えたところにあるように思えます。
彼は、ピッチャーとして活躍するだけでなく、長距離バッターと呼ばれた松井秀喜氏にすら畏敬の念を持たれていますが、折れたバット拾ってあげたり、審判のチェックにも笑顔で応えたり、ゴミを拾ったり、走塁も全力で走ったりします。
アメリカではその一々の行動が、素晴らしい!美しい!ほほえましい!礼儀正しい!として注目を浴びています。
しかし、その一々の行動が彼にとっては当然のことであり、天風先生が説かれる私心無き「積極一貫」体現の大道を歩もうとしているのだろうと思います。

彼は単なる野球選手ではなく、そのプレーの目標は私たちの考えが及ばない高い次元にあるように思えます。
だからこそ何事を体験しようと楽しいのであり、天風先生の「人生は心ひとつの置きどころ」という言葉を実感しているのではないでしょうか。
いや、思想において我田引水的かもしれませんが、そこに位置しようと努めているに違いないのです。
当然のことながら、ホームランを何本も打つ、できるだけ遠くに飛ばしてみたい、といった考えはあると思いますが、大谷選手にとってそれらは枝葉としてやや浅いところに位置するもののように思えます。
「真・善・美」が示す次元は天の高きにあるのでしょうが、私心に満ちたこの世界において果たしてどこまでその志を貫けるか?
私にとっては、そのことが大きな関心事です。

夜明け前が一番暗い

もう間もなく夜明けでしょうか?
ワクチン投与や世界の新型コロナウィルス感染状況からそう感じられます。
基原がどこにあるにしても未来は私たちの行動の結果でしょうし、収束傾向が確信できるのは7月頃でしょうが、夜明け前が一番暗いと申します。
先進国の中でワクチン投与が遅れた日本は、今まさに最後のもがき状態の中にあるのかもしれません。

インドもまた大変な状況にありますが、多くの国で間もなく夜が明けるでしょう。
しかし夜が明けても、従来の生活に戻るには今しばらく待たなければならないでしょう。
先進国以外にもワクチンが届くようになり、治療薬が開発されるまでは待たねばならないでしょう。

私たちは、本来どの様な世界に生きているのでしょうか?
私たちは、自由意志世界のみに生きているのでしょうか?
私たちは、決定論的世界のみに生きているのでしょうか?

今一度これらのことを反省し直観して、世界的にコロナが落ち着くのは来年以降になるでしょうが、何事があろうとも自覚の下で共に楽しく生きていきたいものです。
すべてのものを自己の影として自己の内に映しながら、それを諦めながら楽しく生きていきたいものです。

「鏡の場所」

西田哲学では、あなたは世界と絶対的一者との結合点です。
「絶対無の場所」であり「矛盾的自己同一」の場所です。
西田先生は、禅の徹底的実践と徹底哲学を通じて、実在の最深部をそう結論されたのだと、私は理解しています。
自我から脱出した自己は、世界の一観点としての実在であると。
それは世界が自己自身の内に自己を映す一つの仕方であると。
つまり、西田先生は直観即反省の「鏡の場所(絶対無の場所」に、真実在を見出されたのだと理解しています。
しかも誤解してはならないのは、宗教哲学ではないとする西田先生の捉え方では、運動に重点を置いた「配景の一中心点」なのです。

人生において、自我は様々な揺さぶりをかけてくるでしょう。
しかし、自我(私)から見ている限り、自分の関心事(点)しか見えません。
視座を、私を包む「鏡の場所」に「移動」した瞬間に、自我から脱出して全体が見え始めます。
それが、鏡による絶対無の実践と私は理解しています。

その実践の繰り返しと継続で、思考や日常を超越した現象あるいは反応が現実的に生まれるかもしれません。
量質転化が起きるかもしれません。
やり続けなければ分かりません。
「全てがそこからそこへ」についての実践の話をしているのですから。
最近は難しい言葉を多用していますが、これは陥り易い言語的理解などという小手先の話をしているのではありません。
最も困難な「鏡の場所」に留まる実践をこそ勧めているのです。

運動の究明


私は、力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。
そうだ! 強い、強い、力の結晶だ。

以前、中村天風氏による、この「力の誦句」を紹介しつつ、「すべては力による存在」だと述べました。それ以前においては、天風氏の「力の誦句」と西田哲学の「絶対無の場所」は、究極的にほとんど同じ哲理を説かれていると考えるとも述べました。
私たちが存在すると認識しているこの世界の実相、つまりこの意味世界の実相を観ると、物理的に全てに「力」が必要であると言えます。
それは、観察可能性や数量化さらには予測可能性等々の「科学性」につながるものです。

西田先生は、ご自身の哲学について次のように述べられています。
「私は宗教的体験の立場から論じているのではない。歴史的現実の徹底的な論理的分析からいっているのである。しかもその単に構造を分析しているのではなく、その運動を究明しているのである。」
哲学用語「運動」は、様々な動きに伴う「変化」という意義を持ちます。この意味世界において唯一変化しないものは、釈尊がとく無常すなわち変化と言えます。
このような基底的探求心から導き出され提案されたのが「場所的論理」と言えるのです。西田先生が、京都大学において『基礎数学』を著され、宇宙物理学者アインシュタインの日本への招聘に熱心であったのも、当然のことと肯けます。
「西田教」となるのは問題に思えますが、西田哲学を宗教的とのみ概括して捨象してしまうと、実在する人間として極めて深刻な過ちを犯してしまうことになるように思えます。西田先生の言葉をかりれば、「自己自身の内に表現せられた、自己内映像において、自己の実在性を有つ。」のです。
これらの事情を汲みながら、歴史的事実および実践を通じての宗教的事実をも包括することが、大切なのだろうと考えます。