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<<   作成日時 : 2017/05/30 19:37   >>

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SIMTへの取り組みでは信じることが不可欠です。いや、「信じ切る」といった表現の方が適切に違いありません。夫を信じ切る、妻を信じ切る、友を信じ切る、上司を信じ切るなどなどは、社会生活の中で必要欠くべからざるものと私は今では捉えています。そこそこに信じるという態度では、信の障害となる何らかの事態が生じた時に、その信は容易に形を変えて存在することになるでしょう。
私たちは、中途半端に信じている状態では、その信を障害するような事態になると、簡単に動揺してしまいます。また、信頼を裏切るような結果が訪れると、それに耐えがたい思いに悩まされることになります。繊細さに富んだ方は、信じた結果についての動揺が嫌で、当初から自分の信じる程度をあやふやなものにしがちです。その結果が、信じた内容と異なっても、耐えられる程度の信に留まろうとします。

しかし、これでは信じ切った心に伴う決意ある行動は出てまいりません。それなりに信じると言う行動は、その後のあやふやな行動を生み、中途半端で不満足な結果が生まれ易いに違いありません。
信じ切るということは、信じ切った結果への覚悟をするということであり、その結果に対する責任と勇気を持つということです。つまり、信に応じた行動を伴う可能性が高まるということです。

SIMTには西田哲学が応用されているだけに、その哲理が当初からの洞察課題となっており、結論を導き出す過程をも理解しようとすれば、そこに困難さを覚えるかもしれません。そこで、まずは西田哲学あるいはSIMTを信じて実践的に取り組まれることです。信じ切ることを強調すれば宗教的と批判されるかもしれません。しかし、信じることが全ての始まりなのであり、西田哲学を応用した信じ切ることを強調し得るSIMTなのです。
オーム真理教による地下鉄サリン事件以来、信じることそのものが根本的な問題であるかのような空気に、日本は覆われてしまいました。私たち個々人は、文化の影響を大きく受けています。今は、宗教的なことは信じてはならない、あるいは信じる必要はない、と何となく信じている人が多いように見えます。
しかし、これでは心から安心することはできないでしょう。

V・E・フランクルは、ただそれが真実だと信じるということを、信じるとは言わないと説きます。彼に言わせれば、ずっとそれ以上のことなのです。現代は、信じ切る力を失っているのかもしれません。フランクルは、信じることが、信じることを真実にする力を持っていると説いています。この言葉に対して、オーム真理教による地下鉄サリン事件を経験した私たちは、危険性を感じるかもしれません。
しかし、一方において、徹底的に坐禅し、徹底的に真実の自己を真摯に探究した、西田哲学の哲理を信じ切る事さえ、私たちはできなくなっているのかもしれないことに、思い至る必要があります。自我に基づいて形成されて来た自分の常識こそが疑うべき対象であるのに、多くの人がそこから離れられずに、結局自ら苦しみの中で生きているように私には見えます。

全ては意味に満ちていると信じる人は、そう信じることを通して、すべてが意味に満ち始めると、フランクルは言います。
何事を経験しようと、「今・ここ」の人々の平和と喜びにつながる思想を信じ切ることが、希望から見捨てられることはない世界を形成して行くと確信しています。


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